2017年11月 / 10月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫12月

2009.03.22 (Sun)

■大津市堅田「刀禰家」調査レポート本文

けんさん

まず、前のトピの「刀禰家」調査レポート地図で、全体の位置関係を見て下さい。赤い印が堅田です。この琵琶湖の幅が一番狭くなるところで、湖族として琵琶湖の航行権を握り、大津や瀬田へ出入りする船から通行料を取っていたのです。

右下に比叡山があり、当時の京の都に入るには一端北上して、途中という三つ辻から南下して大原を経由し、修学院あたりの都の右上から入るのが普通でした。これが吉川英治の「新・平家物語 6巻」の中心の舞台です。

JR堅田駅のホームに立つと、東に琵琶湖がデーンと開けて見えます。西は右に比叡山の麓が広がり、左は蓬莱山が雪を被っていました。時間通り1時に改札に岡トニーさんが現れました。私の顔がイラスト通りなのですぐ分かったと言われました。(^_^;)

歩けば20分と聞きましたが、のっけから歩きはキツいのでタクシーに乗り「湖族の郷資料館」へ向いました。最近の駅前は何処でもにたようなもんですが、本堅田地区に入ると一気に昔の街並です。もう少し真っすぐ行くと、そこが琵琶湖畔という場所に「湖族の郷資料館」はありました。

写真で見ていたよりこじんまりとしています。中に入り100円払って記帳しました。ここの岡本館長さんに、「私達は刀禰という名字で、どうやら湖族三家の末裔らしいので調べに参りました。」と言うと、「先日も秋田から刀禰さんという方が来られました」とのお答えでした。(mixiでは秋田には刀禰さんも刀祢さんもおられないのですが、今後出来るだけ追跡してみます。)

展示品をザッと見せて頂きましたが、展示の中心は「応仁の乱」以降の西暦1467年以降のものが多かったです。「応仁の乱」で堅田の町は焼け落ちたと聞いて、のっけから暗くなった私達です。800年から1200年までの湖族三家の刀禰家、居初家、小月家についての資料はほんの僅かでした。

湖族三家の力は800年頃にはすでに相当強く、892年には三家の力を合わせて本堅田に「伊豆神社」を建立します。この神社は伊豆の三嶋大社からの分霊で、この後の堅田の繁栄を祈願したものです。当時の神社建立には計画から20年はかかったでしょうし、それまでに蓄財の期間も相当必要だった訳で、西暦700年代に「刀禰家」は湖族として存在していたのではと考えます。

岡本館長さんの「現在、居初家の末裔は残っているが、刀禰家、小月家はここに存在しない。」の話しに私達は再びガックリでした。刀禰と小月が堅田からいなくなるのは何時で何故かと聞くと「応仁の乱の時点ではすでになくなっているらしい」との返事で、それ以上の事は分からないとも。

私は変な事に気付きました。それはここの資料には「湖族は居初、刀禰、小月」の順で並んでいるのですが、これまで私が調べた歴史資料の多くは「湖族は刀禰、居初、小月」の順で紹介しています。普通は目立つものから順に書くのが普通です。これは刀禰が一番勢力を持っていた時期があったと解釈できて、その時期が「伊豆神社」建立の時期ではないかというものです。現在も残っているのは居初家だけだから、敬意を表して地元では居初を先頭にしてるのかなと思いました。

岡本館長さんは年の頃なら70過ぎの方で、岡トニーさんが頑張って質問したのですが、違う時代の説明を繰り返えすので、ちょっと要領をえない感じでした。でも「伊豆神社」のは建立時の古い資料があるかも知れない事。「応仁の乱」の時の大火で本堅田の建物はほとんど焼けてしまった事実。その後も琵琶湖の大洪水が何度かあり、古文書のたぐいも大変少なく、残っていても相当傷んでいて、大津市による修復も予算不足でまだ一部しかされていない事が分かりました。

資料館の2階に「吉川英治の新・平家物語6巻」の刀禰弾正介と源義経との関わりの箇所が大きく展示してありました。こういうものは湖族が関わった一番のトピックを展示するはずですから、やはり新・平家物語にはこの箇所以外に湖族との関わりの記載はないという事でしょう。

湖族三家が名字を賜った下りが本福寺の寺史P152に記載されているとの情報もありました。私も岡トニーさんも名刺を渡して、これ以降「刀禰」についての情報があれば連絡を頂くという事で「湖族の郷資料館」を後にしました。

資料館を出て右に進むと禅寺の満月寺があり、その境内には琵琶湖に突き出た、有名な浮御堂があり、せっかくここに来たのだからと行ってみました。一条天皇の時代、西暦995年頃に比叡山横川恵心院の源信(恵心)という僧都が、自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで「千体仏堂」と称して湖上通船と衆生済度を祈願して建立したもの、と記してあります。

現在の浮御堂は再建されたもので、浮御堂の湖面に向かって、左前方に古い時代の浮御堂の基礎部分が残っていました。「新・平家物語」では源義経の叔父で熊野水軍の源氏の有力者、新宮十郎行家の姪の嫁ぎ先である、「刀禰弾正介」を源義経が訪ねて、湖畔に突き出した館で酒を酌み交わす下りがありました。湖面の夕日に照らされる浮御堂を横に眺め、今私の眼の前に広がる湖東の景色を愛でながら行われたであろう、酒宴の様子が想像できます。【写真真ん中は浮御堂の私、けんさん】

浮御堂を出て、いよいよ確信の「伊豆神社」です。歩いて10分もかからない所にありました。真新しい「伊豆神社創建千百年記念植樹」の碑がありました。現在の住所は本堅田1丁目で大きな門の前に由来説明があり、そこには以下のように書かれています。

当社の草創は寛平4年(西暦892年)と伝えられています。
宇多天皇の寛平年中諸国行脚の法性坊尊意僧正により、
三嶋明神の分霊を此の地に勧請したものであります。

又、牟田髪天皇天暦三年五月(西暦942年)に山城加茂大神を
勧請し、神田大明神伊豆大権現の二神を祀り、
堅田大宮と奉称され、堅田全域の総鎮守として
崇敬されてきました。

さらに当社を中心に室町時代より、宮座(今の自治組織)があり、
殿原衆と全人衆の会議制で運営された事が、歴史上明らかであります。

先程の岡本館長のお話で、ここに古文書が残されているとの事でしたが、度重なる災害で相当傷んでいる事と、大津市歴史博物館にも湖族の資料があるので、先にそちらを一度調べてみてはとの助言で、今回は社務所を訪ねませんでした。

前日に予約をした「居初家」に伺う時間にはまだ早いので、湖族三家が名字を賜った下りが寺史に書いてあるという「本福寺」に行きましたが、何とお寺は保育園と一体で建物はコンクリートでした。寺の正門のあたりは西暦1500年の建立時のままのようでしたが、それでも先程の「伊豆神社」に比べると新しいさが見えます。保育園を怪しいオッサン二人がうろつくのも何なので、お寺の境内をひとまわりして「居初家」に向かう事にしました。

「居初家」は確かに歴史を感じる建物でした。インターホンで「予約しました刀禰でございます。」と告げると、年の頃なら70過ぎの居初さんが出てこられました。赴きのある苔蒸した飛び石の玄関を抜けて、庭に通されました。【写真右は庭からの琵琶湖】

居初家は国の名勝指定を受けている「天然図画亭庭園」があります。つまり絵に描いたように美しく見える琵琶湖を背景にした、庭園と言う事でしょうか。確かに書院の中から見る縁側越しの湖水に面して、湖東連山を借景にした枯山水庭のリズミカルな構成は美しい絵画のようでした。【写真左は書院からの眺め】

現在の居初家当主は29代目でした。昔は寿命が短かったとしても平均35年は当主を勤めたとして、1015年、29代目はすでに70才は越えておられる風なので、「伊豆神社創建千百年記念植樹」と符合します。結局、この居初さんのお話のおかげで、今日これまでの情報がまとまったものとなりました。以下は居初さんの説明です。

伊勢平家の流れをくむ当家は都の院の御所を警護する北面の武士であった。この北面の武士は6人いて、その内の3人が白河上皇の寛治4年(西暦 1090年)庁宣によって、下鴨神社堅田御厨の供御人となる。合わせて京の貴船神社より、それぞれが居初、刀禰、小月の名を賜る。(それ以前から三家の名はあった訳ですから、我々は名乗る事を承認されると解釈しました。)そして琵琶湖の湖上特権(関務/運送/漁業)を掌握した。

中世は堅田の三豪族は殿原衆(居初、刀禰、小月)と呼ばれて、強力な水軍を保持して琵琶湖を制覇していた。寿永元年(西暦1182年)堅田大宮に、殿原衆が中心となり、宮座を成立させて町の運営を計った。その後は(西暦1467年)応仁の乱によって堅田の町は全て焼けてしまうが、その後は「居初家」を含む全人衆(商人/工人/農人)による住民自治の町となり、泉州の堺同様に栄えることになる。

それから1時間以上、堅田の歴史本を居初さんと3人で読みあさりましたが、さほど、新しい情報は出てきませんでした。そこで、私達が気になる質問を居初さんにぶつけてみました。「居初さんはこの地で29代続いてこられた訳ですが、刀禰、小月は残っていないのは何故なんでしょう。」と。

居初さんからは「残念な事に歴史的な建物や物品は応仁の乱の大災で全て焼けてしまい、分からないのです。ただ、今の場所に「本福寺」が建立される時に、その土地を売ったのが刀禰であり、その記述は本福寺の寺史に書かれていたのでは」との事で、さっそく寺史の本を調べると、確かに「文安元年1月28 日(西暦1445年)刀禰左衛門尉信吉(とねざえもんのじょうのぶきち)より、金9貫500文で本福寺が土地を購入する」との記載があるではありませんか。つまり1185年の壇ノ浦の合戦以降も「刀禰家」は堅田にあったのです。( ゚▽ ゚ ;)

まとめを書きます。
●堅田の地は縄文、弥生、古墳時代は小規模な集落が点在する程度であった。

● 奈良時代(西暦645年頃)に「衣川廃寺」という堅田の最初の寺が出来た。
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/jiten/data/025.html

● 平安時代前期に伊勢平家の流れをくむ堅田の湖族が登場して勢力を伸ばす。
伊勢と日本海や北陸地方を結ぶ交易ルートとしての琵琶湖は重要な位置づけとされていた。伊勢平家が勢力を伸ばしてゆく中で、船舶の航行権を求めて平家傘下の水軍が湖族として 近江堅田に進出して行った。

●平安時代の寛平4年(西暦892年) 刀禰、居初、小月の三家が力を合わせて、「伊豆神社」を建立(西暦942年)に山城加茂大神を勧請し、二神を祀り堅田大宮と奉称させる。この古文書が「伊豆神社」にある。

● 伊勢平家の流れをくむ湖族三家は白河上皇の御所を守る「北面の武士」で、西暦1090年庁宣によって、下鴨神社堅田御厨の供御人となる。同時に京の貴船神社より、三家が居初、刀禰、小月を名乗る事を承認される。そして琵琶湖の湖上特権(関務/運送/漁業)を掌握した。(平正盛と息子の平忠盛は白河上皇のために働き、富と権力を手中にした。平家は当時最大の荘園となっていた比叡山の勢力の牽制と、琵琶湖の航行権を確保するために伊勢平家の傘下の堅田湖族を増強したと考えられる。)

○1177年から1180年の間の吉川英治「新・平家物語 代6巻」にはこの時の堅田湖族は源平に対して中立だったが清盛の圧政には批判的だった。この時の刀禰家の首領「刀禰弾正介」は源氏の縁者を息子の嫁に迎えている。その縁で、源義盛の甥の源義経を平家の追っ手からかくまった。

○ある時、清盛に批判的な比叡山の僧兵と「刀禰家と居初家の息子達は」都の治安悪化を狙って、京の町で争乱をおこしたが、清盛配下の平時忠に捕まってしまう。見かねた源義経は刀禰・ 居初家の息子達を救出する替わりに、堅田湖族の平家に対する恭順、自らの遠国への立ち退き、比叡山僧侶との和解を条件に自ら京へ出向いて、平時忠と交渉してこれを成立させる。

○ それ以降1185年の壇ノ浦での平家滅亡まで5年の間、湖族は平家につきあう事になる。「刀禰家」と「小月家」の主力は一の谷から屋島へと出て行き、壇ノ浦で平家滅亡と共に落ち武者となり、源氏の追っ手から逃げて全国に散る。「居初家」の主力は残って後の豊臣秀吉の時代まで、堅田で自治を行った。 首領を失った「刀禰家」と「小月家」は自然に衰退しく行く事になる。

● 壇ノ浦合戦後の落ち武者の一派は山口県萩市大島に逃れて、町を起こしてその子孫は現在も大島に在住している。刀禰を含む平家7名の落ち武者伝説も現存している。
(このサイトの下の方に記述があります。)
http://www.pref.yamaguchi.jp/gyosei/chiiki/island/3osima.htm

● 1445年には堅田の「刀禰家」の刀禰左衛門尉信吉(とねさえもんのじょうのぶきち)は本福寺建立のための土地を寺に売却して、堅田を去る。

● 1467年の応仁の乱で堅田の町は大火に包まれ、新しい区画整備が始まり、現在の「居初家」はその時に再建されたものが現在に至っている。

というところでした。●はほぼ歴史上の事実で○はこれまでの調査で考えられる仮説です。

後書きです。
岡トニーさんとJR堅田駅で始めてお会いして、二人で5時過ぎまで駆け足で刀禰の足跡を探しました。くたびれたのと腹も空いてきたので、地元で有名という昭和13年創業の寿司屋「志満屋」で名物の鰻の「ひつまぶし」を頂きながら、ビールと焼酎で800年ぶりの今日の再会に乾杯しました。
旨かったです。( ̄¬ ̄)

店の大将の田中さんに、私達はこちらの湖族の「刀禰家」の末裔のようなので、今日は堅田に調査に来ました。と話すと「堅田は湖族の郷で丁度売り出しているところにようこそいらっしゃいました。実は私の20フィートヨットは湖族の郷を縮めて、KOZOSATO号と命名しているんです。」と嬉しそうに話していました。( ̄~ ̄;)

今回の堅田の調査を終えて私達二人の感想は再調査の必要あり、というものです。大津市の歴史博物館の湖族の資料は調べる価値があります。その上で再度29代目居初さんにお話を聞く必要がありそうです。(・ω・)

堅田の刀禰が全ての刀禰さんのルーツに直結する訳はないのですが、萩市大島の刀禰さんの様に平家の落ち武者伝説が残っている家系、福井と石川の刀禰さんのように堅田ルートに近い家系、和歌山の刀禰さんは果たして壇ノ浦組なのか、伊勢神宮役職系なのか、詳しくは書きませんでしたが、刀禰は伊予水軍との関わりもあったようです。この辺は言い伝えなどを交えて、互いの情報交換の必要がありそうです。d( ̄  ̄) 

出来ればみなさんで、一度集まるのがいいかも知れません。そして集まる場所としてはこの刀禰家の歴史が語り継がれている、樫田が最適と思いました。そんな事を二人で話していたら、この「志満屋」の大将が「どうぞ、うちの2階の座敷を使って下さい」って言っていました。まあ、何と商売っ気のある方でしょう。(*^_^*)

■なんで刀禰家だけが源平の戦いに出て行ったのか

けんさん
やっと吉川英治の「新・平家物語六」を読み切りました。一度では不明な点もあり何度か各部を読み返しました。

●本編に入る前に本の時代背景を整理します。

この第六巻は源氏が平家討伐の旗を上げる前の治承元年(1177年)から3年間を源義経の行動を中心に書かれています。壇ノ浦の合戦(1185年)で平家が滅亡する5年前までです。

西暦800年頃から伊勢神宮の伊勢国支配に於いて、刀禰がその末端として船舶の航海権を管理していたのはどうやら事実のようです。伊勢平家の台頭と共に、治安維持活動を含めて、海賊の討伐や中国との交易を担当したのが刀禰水軍と考えられます。

清盛は伊勢平家の出身で父の忠盛、祖父の正盛は中国交易で財を成して、白河天皇のために働いて、勢力を拡大させて清盛の代になって最大の権力を持つに至ったのは史実です。

西暦1000年当時は熊野と伊勢は伊勢街道が整備され、伊勢と日本海や北陸地方を結ぶ交易ルートとしての琵琶湖は重要な位置づけとされていた。平家が勢力を伸ばしてゆく中で、船舶の航行権を求めて刀禰が湖族として近江堅田に進出して行ったと考えます。(これは私見です)

琵琶湖の物流ルートを掌握する堅田湖族(刀禰家、居初家、小月家)には、その時京の都を治めていた平清盛も一目置く存在で、堅田湖族は源氏と平家どちらにも旗色を明らかにしない独立国家のような存在だった。

西暦1000年当時は「熊野源氏」と「熊野平家」の両方がにらみ合いながらも共存していた。(源氏の本拠は東国の平泉で、平家の本拠は伊勢と京の都)

●ここから吉川英治作「新・平家物語六」の抜粋です。

源義経は18才で平泉を飛び出して叔父の源義盛をたずねて熊野に入るが、源氏側の追っ手に追われて、中立地帯とも言える近江堅田の「刀禰弾正介だんじようのすけ」のところに身を寄せる。

当時の堅田湖族は源平どちらにも組せず、公の立場は中立だったが、清盛の圧政に批判的な立場を取っていた為に源氏支持派が多かった。刀禰弾正介もその一人で、源義盛とも交流があったために、その甥の源義経をかくまった。

ある時、清盛に批判的な比叡山の僧兵と刀禰家と居初家の息子達は平家の納める都の治安悪化を狙って、京の町で争乱をおこしたが、清盛配下の平時忠の兵に捕まって牢屋に幽閉されてしまう。刀禰弾正介は救出の部隊を差し向けるが失敗に終る。

見かねた義経は刀禰家と居初家の息子達を返してもらう替わりに、樫田湖族の平家に対する恭順と、義経主従の遠国への立ち退きと、比叡山僧侶と平家を和解させるという3つの条件を熊野誓紙にしたためて、刀禰家と居初家の息子達を返す交渉を自ら京へ出向いて、清盛の配下の平時忠と交渉して成立させる。

●刀禰家に関わる記述は以上です。

交渉が成立したので、それ以降壇ノ浦の平家滅亡まで5年の間、樫田の刀禰水軍は平家につきあう事になります。一方の居初家が、なぜ平家に加勢する事なく、後の豊臣秀吉の時代まで堅田にいる事になったのかは不明です。

ここで肝心な事に気付きました。本題の「なんで刀禰家だけが源平の戦いに出て行ったのか」か謎のままです。 ( ̄□ ̄;) ガーン
スミマセン分かりませんでした。

あくまで、吉川英治の世界ですから史実とは限りません。うちの家には刀禰水軍、近江堅田、壇ノ浦でボロ負け、落ち武者となり時国家について、能登の輪島先の真浦へ辿り着いたと父から聞きました。

・山口県萩市にいらっしゃる刀禰さんとは壇ノ浦で、分かれてしまった可能性が高いです。

・福井県や和歌山県の刀禰さんも、水軍、平家、壇ノ浦が語り継がれているならば、壇ノ浦から生き延びた一族の出かも知れません。

・もしそんな言い伝えがなければ、役職としての浦の「刀禰」や、特に福井県では製塩を司る浦の「刀禰」が名前になっているとも考えられます。神事、神官としての「刀禰」や村の長としての「刀禰」の可能性も高いです。前のトピで書きましたが、「刀禰の○○さん」が代々続き縮まって「刀禰さん」になったのではという説です。

岡トニー
おかとにです。けんさん、どうもご苦労様です。わくわくして読ませてもらいました。吉川英治さんの小説だと、我々の祖先はあの義経をかくまったんですか?平氏にはめられて味方にされてしまったんですね。ロマンがあっていいです。あり得る話です。

なぜ、刀禰だけが源平の戦いに出て行ったか?
要領が悪かったのでしょうか?
私たちの祖先らしいです。(失礼しました!)
私の和歌山の家でも昔、都落ちしてきた、という話があるので、
その刀禰家であってほしいですね。
でも、役職の刀禰や、それが偉くなって刀禰を名乗るようになった刀禰と区別がつきません。あるいは、堅田   の刀禰も、官職名の刀禰から出たのかもしれませんし。
前にも書いたように
プロの歴史学者は、堅田の刀禰はほとんど無視、
刀禰争いの方の刀禰(官職名からきた)にばかり注目しています。一度このへんのところを専門家に聞いてみたいですね。


せ〜やん
めっちゃ解りやすいっ!
すげぇ〜っす。

お疲れ様ですっ!

「平家の落ち武者」とだけ聞いていた自分。
「刀禰」で調べると、伊勢神宮に縁があるらしい。

で、今回「熊野」という言葉が出てきましたね。
これって、もちろん「熊野古道」の熊野…和歌山ですよね?

和歌山に刀禰があっても、別におかしくないっちゅうコトですね。

ウチの本家は高野山の方にあるらしいし。

って、前にも似たようなコトを書いた記憶が…(^^;)

けんさん
コメントありがとうございます。
感想を書いて頂けるのが励みになります。
何せこれだけ書くと、フッと後ろを見ると誰もいないのでは、
と不安になりました。

ほんとは「新・平家物語」のこの後の6、7、8、以降を読むべきなのでしょうが、私にはとても、とても、根気がありません。誰か読んで、刀禰弾正介のその後どうなったかが、書いてあるのか調べて頂けるとありがたいのですが.....。

本に書いてありましたが、源義経が訪ねていった叔父の源義盛がなぜ、平家の圧政下で熊野源氏としてそこにいたのか、という下りが面白かったです。源義盛は東国の武将ですが、伊勢参りの折に熊野である女性に出会い、ベタ惚れして東国に帰るのをやめてそこに居を構えてしまったそうです。これが平家の天下の中で熊野源氏の血筋が残った理由なのでしょう。

この源義盛が恋をしなければ、源義経が身を隠す事はできずに、まして刀禰弾正介に関わる事もなく、歴史は変わっていたのかも知れません。歴史はロマンです。 もとをたどれば、平家も源氏も天皇の血筋で分家の分家だから皇族から外れた家柄です。清盛はもう一度天皇家の主流に戻りたかったから、娘の子の安徳天皇を無理矢理即位させたました。

それが民衆の支持を失い、源氏に天下を奪われ、一族どころか刀禰水軍をもバラバラにする結果となりました。 身びいきは家庭の命取りになるという、教訓です。

テーマ : これ言っておかなくちゃ - ジャンル : 日記

タグ : 「刀禰家」調査レポート本文/なんで刀禰家だけが源平


人気ブログランキングへ
14:32  |  寿司/天ぷら/鰻/カツ  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)
 | HOME |